8月6日

第二次世界大戦が「過去のもの」になりつつある中、

今年は例年以上に第二次世界大戦の検証、追悼、継承報道が少なく思う。

 

8月6日8時15分、私は通勤のため駅に向かって歩いていた。

忘れたわけではない、でも生活に追われて黙祷できていない人が多いのではないだろうか。

一部でオリンピックで黙祷をしてほしかった、との声が上がっているが

他国の方々に強いるほど、我々日本人はできているのだろうか?

 

広島県原爆資料館からマネキンが撤去された時も危惧していた。

日本人はあの悲劇から目を背けたがっているのでは?と。

悲劇を深く知ることこそ、平和を希求する心に繋がると思っていただけに残念でならない。

 

私が幼い頃、兄の夏休みの宿題で「原爆展を見て感想文を書く」というものがあった。

母につれられ、兄と見た原爆展の衝撃は今も心に深く突き刺さったままだ。

母親と兄妹らしき3体のマネキン、服は焼け落ち、皮膚が指先から垂れ下がり、

血と涙を流しながら苦悶の表情を浮かべていた。

母と兄と繋いでいた手がじっとりと汗をかいていた。

原爆展を見た後、百貨店でクリームソーダを飲んだ気がする。

怖くて、悲しくて、味などしなかった…。

 

人間は「想像する」という素晴らしい能力を持ち得ながら

視覚、聴覚といった五感だけで情報を処理することに慣れ過ぎてしまった。

学校では子供達のトラウマにならないよう配慮された情報にしか触れさせないようにしていると聞く。

不都合な真実、目を背けたくなるような現実を覆い隠した情報から

今の子供達はどこまで想像することができるだろうか。

 

あたりまえのように存在する家族が離れ離れになってしまうこと。

父や兄が遠く離れた国で命を失ってしまうこと、骨すら見つからないこと。

祖母や母に二度と抱きしめてもらえぬこと。

絵本を読んだだけでわかるのか?

 

最適な言葉ではないが、あえて言うと私はこの時期の「戦争特集」の番組を

毎年とても楽しみにしている。

この平和のありがたさ、家族が生きているという喜び、

日本に生まれた幸運を噛み締めることができるからだ。

 

明日の8月9日は11時2分が黙祷の時間です。

ちょうど会社にいる時間なので黙祷したいと思います。

そしてその時間、一人でも多くの人が黙祷してくれたら

今回の「オリンピックに黙祷するかしないか」の議論が無駄ではなかったと思います。